昭和五十四年十月十五日 朝の御理解
御理解第二十二節
「天地金乃神と言えば天地一目に見て居るぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えばままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ。」
おかげを受けるという事が、受け物が良い悪いは別としておげを頂いておるというのが多いんですね。まあ自分の受け物が出来たからおかげを受けておると言うのではなくて、まあ言うならば、お取り次ぎのお徳によって信心も出来んのにおかげを受けるというおかげが多い。そこで本当のおかげね、その本当のおかげというのは、やはり受け物が出来なければおかげは、受けられない事はもうそれこそ火を見るよりも明らかなんです。そこをよくひとつお互いが分からせてもらわないけん。
何十年信心を続けておっても、その真の受け物作らんなりにやはりおかげを頂いておるからと、信心を続けておるだけでは大した事はない。
本当のおかげが受けられるようになって、その本当のおかげこそがあの世にも持って行けるであり、この世にも残しておけるのである、ね。だから、信心も出来ませんのにおかげを頂いてとこういう事になるんです。昨日は丁度続けてある御信者がもう熱心に熊本から参ってまいります。ところが此の頃から、売り出しのようなま展示会のような事をされた。ところが非常に成績がよくなかった。それで信心のないお母さんが、あんたがあんまり合楽合楽というてぼうけてしまうけんでこげなこったいと言われた。というお届けがございました。まあ熊本から合楽までお参りしてくるとは大抵やっぱし熱意がなからにゃお参りが出来ませんもんね。なかなか筋のよい信心をされます。ところがその事だけではなくて、何とはなく此の頃、右と願えば左と言ったような感じなんです。
これもやっぱり大分の方から昨日一家でお参りされておりましたが、合楽におかげを頂いて、はあ合楽という所はその兎に角、お参りさえすりゃおかげ頂くなあといったような初めはそういうところがあった。で、もう周囲の方達も大変お導きをしてまあそれこそ、大分の僻地の方からお参りになるんです。とても大きなお商売をなさっておられるんですけれども、お母さんだけがどうしてもお参りが出来なかった。ところが最近こう売上が落ちてきた。それでお母さんにこれはお母さんあなたもどうでも参って下さいと、一家中勢を揃えなければだめですよと言うて、もう二、三回参られて昨日も一緒に参ってきております。丁度そういうお取り次ぎを二つ続けさせて頂いたんですけれども。
私は今日皆さんにね、おかげの受け物が悪ければおかげが漏るとおっしゃるその神様が、もう既に本当のおかげを下さろうとしておるとまず思わなきゃいけませんですね。
ただ合楽合楽と言うて参ってきた。ま成る程おかげ頂いた。迷うておる事もお伺いすりゃすぐはっきりする。合楽という所は大変な御比礼だというふうにして、ま周囲にもそういうお導きが出来て、お参りをさせて頂くようになって、これもう合楽でなからにゃ出けんというようになって、お商売の売上が落ちてきた。それでお母さんあなたもどうでん参って下さいというて、お母さんも無理にお参りをさせて頂いて、或る月次祭にお参りをして確かに合楽の御比礼には恐れ入ったと、私もこれからお参りしようというて、お参りをされるようになった。まだお母さんは三回位でしょうか、今日で。ところが、依然として売上は上がらないのではなくて落ちるという感じである、ね。
皆さん教祖の神様のもう晩年の頃にはもうこれは異口同音に皆の信者におっしゃったそうですね。用心しなされよ。信心に身が入ってくると神様のお試しがありますよ。という事であった。用心しなされや、と。信心に身が入ってくると神様のお試しがありますぞ。 合楽の信心が分かってきた。もうこれは会楽でなからにゃ出けん、と思い込みも段々強うなってきた。ところが、その例えば商売であるならば、かえって商売の売り上げの方が落ちてきた、ね。どうした事じゃろうか。これはもう合楽までも、ぼうけちから参るからだろうかと、いうふうにもやはり感じる人もあるわけですけれども、ね。
私はこの二人の方にです。この事を伝えようと思ったけれども、神様が伝える事を許されなかったです。どういう事だと思うですか。
私もそれを実感しました。もう合楽合楽でなからんならんように打ち込んでおる方達、お二人である。それが続けてでしたから、それを感じたんですけどね。
これは合楽の場合は、これは余談ですけれども、何かね、例えば久留米関係に、合楽が始まって火事が起こったというのは久留米だけでした。佐田さんところの倉庫が丸焼け、古賀さんの所が家が丸焼け、それから佐田さん所の女中さんに居られた方でしたけれども、お導きを頂いて、今矢部におられるそこが丸焼けになりました。それはほんなあっという間でしたよ。三つ続きました。それだけでも神様の御都合だという事が分かりますが、この分かった証拠にその後の繁盛がね、もうそれはあの矢部の後藤さんのお宅でもそうです。それこそ焼け太りのおかげを頂いた。古賀さんの所なんかそれこそもう本当に、言うならまあある意味でみすぼらしいお宅であったけれども、それこそもう材木関係の仕事をしておられるから、あっちこっちから火事見舞いに銘木が集まりました。それこそ銘木で一軒出来たと言われるような立派なお家が建ちました。その後も繁盛続けておる。佐田さんのお宅に於いてもしかりです。神様の御都合です。
昨日もね、あの、追突の事故を受けたというのが三件あったです。吉井の杉さん所の御長男が吉井に帰ってきよってからあの暴走族が後から単車で来てからぶっつけた。それから矢次さんがここの御大祭の買い物においでられた帰りがけに、やっぱ後からトラックでぶっつけられてそして前の方とにぶっつけた。だから真ん中でもうそれこそサンドイッチ的なその事故であった。それからあのう、慎重ち言えばこれ以上慎重な人はなかろうといわれるような笠さんがね、昨日やっぱり追突事故を受けておられます。勿論おかげを頂いて、身体にはあれはないですけども、続きますね。だからこれは私がお取り次ぎさせて頂いて、これは神様の御都合とすぐ感じるわけです。昨日なんかもそうです。
合楽にお参りをさせて頂いてもう親から、あんたがあんまり合楽に日頃のぼせるけんこういう事とか、片一方ももうその動きなさらんじゃったお母さんを動かして合楽にお参りをするようになったら、かえって売上が落ちてきたと、こう。これが続けてあった、ね。神様の御都合と、だから結局私の祈りとしては、ここんところを大事にしていって下さいよという事なんです、ね。
自分の意のままになる時には、さあおかげおかげと有頂天になるように思うような時もあるかと思うと、それとは反対に裏目裏目という時もあるけれども、まここで御理解を頂いてみるとね、願うた事が成就するという事は大したおかげじゃない。願うた事が右、右と願えば左といったような時こそ神様がままになっておられる時なんだと、むしろね、そこん所を分からせて頂いてそれこそ、夢にも思わなかったようなおかげが展開してくる。そういう夢にも思わなかったようなおかげの展開でなからなければ本当のおかげとは言えない。願うた事が成就した、というのは本当なおかげじゃない。言うならあの世までも持って行けるというおかげじゃない。
右と願えば左、左と願えば右という時に、言うならば神愛を悟り、神意を悟らせてもろうていよいよ真の信心が出けて、その向こうに待っておる本当なおかげ、受け物が出来て頂くおかげですから、受け物がそん時に大きく出来ておれば大きく、それこそ夢にも思わなかったおかげの展開となってくるのです。
そこで、なら私がその昨日二人の方にですね、教祖の神様のその御教えを説いてあげたら、はあ今こそならお試し受けとる時だろうかと、分かんなさるかも知れんけども不思議ですね。これは自分でだと思うた時でなからなきゃほんなこつじゃないです。人に言われてから、ああそうかなという位な事では。
そこで、此処まで出るような事です。喉まで出るような思いでしたけれども、それを黙って治める。それはどういう御都合でしょうかねと、神様の御都合が分からにゃいけませんな。と言うて二人ともお取り次ぎさせて頂いたんですけれども、本気で合楽でなからにゃ出けん。合楽、合楽と言うて打ち込んでおかげを頂き出したらね。信心に身が入ってくると神様のお試しがありますのでという事。
皆さんこういう御理解を頂いたら、これ自分の身の上に起きてきた時にそれがぴしっとこう受け止めれる信心を作っておく。それが受け物を作るという事なんです、ね。
人の時には分かるけど、自分の時には分からんもんですけれども、自分の上に起きてくる時にドッコイと受け止められるおかげを頂いて、初めて受け物が出来るその向こうのおかげであって、言わば限りない本当のおかげにつながっていくのです、ね。
おかげの受け物が悪ければおかげが漏るぞというのは、そういう事だと思うんです、ね。ひとつ覚えときなさいよ。芯からね。もう本当に素晴らしいおかげの受け物を下さろうとする働きが起こってくると、ああどうしてじゃろうかと後ひざりをしたり、言うならそこに迷いが起こったりするような事では繰り返すたんびに、お試しを受けなきゃならんという事になる。信心が進む、進んだ時点でお試しを受けるのは有り難い事です。神様は教えておらん所からは試験問題は出さんとおっしゃる。もう十分に分かったろうという所に言うならば、試験があるようなもんです。
昨日は、まあこれは誰が見てもよい信心を頂いておられて、まあ言うなら合楽一番のよい信心を頂いていかれとるじゃなかろうかと、思われる方のここでお届けを聞かせて頂いておる時に頂いたのは、「二宮金次郎が薪をかついで本を読んでおられる」あのうようありますね銅像が、小学校なんかにようありますあの銅像のようなものを頂いて、二宮金次郎がね、少しばっかりの薪になってるんです。格好はやっぱあの格好そして本をこうやって開いて読んでおる姿を見ましたけど、その読んでおる本がどういう本かというと、私共が小学校の一年生の時に習った読本です、ね。それを開いておる所を頂いたんです。ま合楽きっての信心が出来ておるという方の信心でそれなんです、ね。
後ろの薪が少ないというのは、まきは真木、真心という事に通ずるでしょう。真心の厚い方だなあと思うけれども、いっぱいの薪を背負っておられる訳じゃない。少しばっかり担ってある。そして信心が好きで勉強はまだしござるばってん、ま言うなら小学校の一年生のハナ、ハトというそこば開けておる程度の信心であるという事を頂きましてから、これはいっちょ本気で自分の信心を検討しなければいけないな。ていげいにゃわかったごたる、てえげにゃおかげも頂きよるようにもあるけれども、果たして神様の眼からご覧になるとね、この位な事ではなかろうか。まあだまあだ後にいっぱいの薪を担わにゃいけん。もう少しは字引を引かにゃわからんという位に難しい、言うならば所も読めるようになね。言うなら勉強に取り組まなきゃいけない。初めから先生はおらない。けれども、段々それがね、小学校から中学、中学から高校というふうにその勉強が進んでいかなきゃならない。 自分で思うてみてごらんなさい。自分達はまあだハナ、ハトのごつ絵本を見ておる位なこっちゃなかろうか。後の蒔きというたらもう、それこそまあお小分な事であろうとね。真心、そして勉強ね。信心も手習いも同じ事とおっしゃる。その勉強に本気で取り組む。その勉強が身についていく事が楽しうなるというような信心でなからなければいけない。 昨日は田代家と石井家であちらの今の田代さんやら石井さんやらの叔母さんにあたる方の四十五年の式年祭がございました。いわゆる甥やら姪やらが集まって、本当にあの、ま言うなら素晴らしい。なかなか出来ませんよね。叔母さんぐらいの。その後がおられませんから、田代新吾さんという方の一番初めの奥さん、その後に妹さんのあの田代幸子さんが見えられて今の子供達がおるわけなんです。ね、ですから、言うなら叔母さんです。の式年祭を奉仕されましたが、私は奉仕が終わってこういう事を聞いてもろうた、ね。
例えば、もう勉強するでも、眠うて眠うてこたえんという時の勉強はもうこげんきつい事はないだろうがと、ね。例えば何をするでももう眠うしてこたえん、例えば御結界奉仕なんかでも、もう眠うしてこたえん時の御結界奉仕もこげん苦しい事はなかです、ね。 ところが、自分の心が生き生きとして瑞々しい時には、もうそれこそここに根が生えたように、もう動きたくない事なるです。信心でもそうです。だから、例えばならお宅の神様のお掃除でもする時に、ああもう汚れてござるからお掃除を弾んで、それこそあのお掃除をする事がもう有り難うして楽しい事があろうがとね。せんならんけんするという信心じゃつまらんよと、さしてもらわなければおれない、そこにはどうでも求められるのが生き生きとした瑞々しい心なんだ。
勉強する、勉強が頭に入らん、眠気がついてくる。そげん時には、ならばお水のひとつもかかって、ね、気分を転換して又勉強にかかるという手立てもあるけれども、やはり勉強が好きになるという事になると、そういう事じゃない。楽しうなってくる。信心も同じ事だ。昨日の御霊様は、霊様自体に力があった。特に甘木関係の信心を頂いておられた霊様でしたから、兎に角やはり徳の高い先生の時のあのおかげを受けておる霊ですから力があるですね。私は本当に昨日はそれを感じました。だから、遺族の者の一生懸命の真心というだけではなくて、霊自体に力があるもんですからその霊が姪達甥達をリードしながら昨日のお祭りは出来たという感じでしたね。
力を受けとかにゃなりませんよ。霊としてのやはりお徳を受けとかにゃならない。そういうおかげお徳を受ける為には、今日私が申します、おかげの受け物が出来て頂くおかげでなければ力も徳にもならないという事なんだと。ただお願いをしておかげを頂く。そこで段々信心が分かってくる。もう合楽でなからなきゃ出けんというように、合楽に帰依が出来るように、だから本当に帰依が出来たかどうかを神様が試しなさる事になるね。だからそのお試しに合格出けるような信心を日頃頂いとかなければならない、ね。
信心に身が入ってくると神様のお試しがありますぞとこうね。どっこいとそれを受け止めさせて頂ける信心。おかげを頂いてです、言うならば困った事にそれこそ火事で丸焼けになる。という位にま不幸な事はないと思うんですけれどもね。それが却っておかげの元になるようなおかげをいただかなければならんね。そこでです、ならおかげが受けられん。合楽に打ち込めば打ち込んだだけ商売の方が不振になったという時にお試しを受けておると感じたら、よしこれが病人であるならば、死んでもままよ、ならこれで商売が倒産する事になっても、ままよという腹がなければ、そのままよという心を出す事を最後には言うてありますね。
ままよとは、死んでもままよの事でと、最後におっしゃとられます。お試しを受ける時にはですね、もう右左は神様あなたにお任せしますと、ドン腹すえてのおかげを頂く時に、言わば合格という事になるでしょう。必ず力がその事によって受けられるでしょう。
その力によるおかげが十斤持てば十斤、百斤持てれば百斤のおかげを受けた時にです、初めてね、それこそ夢にも思わなかったようなおかげという事になってくるのです。
皆さん、信心をしっかり打ち込んでいかれるのですから、打ち込んでゆく過程には必ず、その打ち込めば打ち込む程、言うならお試しを受ける事がありまうから、そのお試しをすっきりとね、ひとつ合格のおかげを頂くような信心を日頃しとかにゃいけん。
昨日私は、熊本の方と大分の方に二人続いてお届けをさして頂きましたが、ここでそれを言うたら、あっそうかも知れませんと言われて分かったんじゃいかんです。自分が知っとらなければ、習うとる所だから、そしてね、私がヒントも何も与えずにそういうようなね、ままよという心で打ち込んで見える時にその方達は本当におかげの受け物が出来るであろうと思います。これはお互いの上にもよくやっぱ御理解を頂きこんどかんとそこがわからんね。そしてこれ程信心するのにどうしてじゃろうかと。これは合楽、合楽と言うてあんまりぼうけちすぎたっちゃなかろうと、いったような迷いまで起こってくるような事にもなりかねないですね。どうぞ、ひとつおかげを頂いて、ね。神様が下さろうとしておるおかげをね、充分にいや十二分に頂かせてもらう。
神は平等におかげを授けるが受け物が悪ければおかげが漏るぞ。というね、水も漏らさんおかげの受け物を作りたいものですね。 どうぞ。